Q & A 

邪馬台国とは

 歴史学者が惑わされてきた中国史書の「卑弥呼の記紀比定」と「邪馬台国の地域比定」である。
 記紀が紀年延長と系譜変造を行ったことから、更に混乱に拍車をかけている。
 地域比定につては魏志倭人伝の解釈から、畿内説と九州説に分かれる。
 中国、朝鮮においては、倭人は呉の太伯の子孫と考えられている。
 松野連(新撰姓氏録右京諸蕃漢条に記載)は呉王夫差(在位;紀元前495−紀元前473)より出づとあり、系譜によれば子慶父忌とともに筑紫に来たり、肥後国菊池郡山門里に住するとある。
 呉滅亡(前473)を契機として山東半島の倭族が朝鮮半島の中・南部に亡命して辰国を建国した時期である。
 呉の地域は長江下流にいた倭族居住地であり、呉王一族が日本列島の筑紫へ脱出したことも符合する。
 雲貴高原で稲作を始め長江下流に居住していた倭族が呉王一族とともに九州北部へ移住したことは、菜畑遺跡(佐賀県)、板付遺跡(福岡県)などから同一年代であることが確認できる。
 来朝後、評督となるとあるから熊国王(現在の熊本・佐賀・長崎の領域のリーダー)となったのであろう。

 漢土に対しては倭国王を名乗り、後漢時代は朝貢を行ったことが後漢書から確認出来る。
 松野連の祖の系譜を見ると、卑弥呼、卑弥鹿文(卑弥弓呼か?)、難升米、倭の五王(讃、珍、済、興、武)があり邪馬台国の家系なのかと思われる。
 記紀比定で日食記事(西暦247年、248年)から卑弥呼を天照大神、卑弥弓呼を素戔鳴尊とする比定は妥当なのだが、魏志倭人伝の卑弥呼に日食を暗示する記述が見当たらないことは謎である。
 しかし考えて見れば、天照大神は高天原(馬韓)の女王であり半島に居たので偶然の一致に過ぎない。
 邪馬台国の風習として男子の入れ墨があるが、熊国(特に肥後)は九州アイヌの本拠地だったので符合する。
 何故、邪馬台国と呼称されるかは夫差が肥後国菊池郡山門里に住したからである。
 その後地名遷移により九州に山門の地名が多く、邪馬台国研究者の地域比定作業混乱に拍車をかけている。

 
※日本書紀と松野連系図の照合
 

天皇

日本書紀記載人物

松野連系譜記載人物

照合結果

     
崇神   刀良(卑弥呼)  
垂仁   花鹿文、卑弥鹿文、字麻鹿文  
景行 厚鹿文、迮鹿文 取石鹿文、弟鹿文、厚鹿文、迮鹿文、熊津彦

一致!

市乾鹿文市鹿文 字也鹿文、市乾鹿文市鹿文、難升米、掖邪狗 一致!
成務・仲哀   垂子、伊馨者  
応神    
仁徳・履中   讃、珍  
反正・允恭    
安康・雄略   興、武  
清寧・顕宗・
仁賢・武烈
   
継体・安閑・宣化    
欽明・敏達   牛窓  
用明・崇峻・推古   長提 松野連賜姓
(姓氏録に記述)
※参考資料 姓氏類別大観【松野氏】

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