Q & A

Q11.華族について                                            戻 る

A11.古くは公家の第二等階層の清華家を指す別称であるが、明治2年の版籍奉還と同日に堂上家136家、諸侯248家、堂上格28家、藩主格15家の合計427家が華族と称される。
 「華族類別録」(明治11年刊行、474家収載)によれば、出自は藤原氏201家を筆頭に、清和源氏124家、桓武平氏22家、宇多源氏21家、村上源氏18家、菅原氏15家が続いている。
 明治17年には華族令が宮内省より通達されて、公、侯、伯、子、男の五爵の格付けが行われる。
 以降の授爵者を大別すれば、旧華族として公家華族(堂上、堂上格)と武家華族(藩主、藩主格)、新華族として賜姓降下華族、奈良還俗華族、神官華族、分家華族、勲功華族となる。
 年を経る毎に華族は増え続けて、新憲法により華族制度が廃止された昭和22年5月には913家に達した。
 平成5年、首相に指名され「殿」と呼ばれた日本新党の細川護熈氏は元熊本藩主細川旧侯爵家の家柄である。
 
 華族大鑑 現代華族譜要 (1929年) 平成新修旧華族家系大成 (上巻)
       平成新修 旧華族家系大成〈下巻〉 華族―近代日本貴族の虚像と実像
       華族歴史大事典


Q12.出自とは何を指すのでしょうか?                                 戻 る

A12.苗字や称号が発生する平安時代中期頃までは、源、平、藤原、橘、在原、伴、菅原、紀、清原、秦、坂上など約千数百の氏族集団の氏を名乗っていました。   主要氏族派生図  王朝歌人の出自
 その後使われ始めた苗字はありふれた地名に基づくものが多く、同苗字が多く生まれた為に家柄が重視される時代にはむしろ古代の有力な氏が尊重され、この氏が家柄を表し出自と言われる。
 中でも源氏や藤原氏、平氏は分流が多く、さらに××流とか××氏族で区分する。
 出自には、偽系図による僭称や偽称も多いことは事実ですが、由緒正しき家系においてもほとんどの家は血縁養子だけでなく非血縁養子による家系存続を行っているのが実情である。  岡山藩主池田家の例
 出自不詳の家も、家紋、通称、通字などから類推出来る場合がある。

 

 新編姓氏家系辞書 7版 姓氏家系大辞典〈第1-3巻〉 (昭和9年) 日本名字家系大事典


Q13.苗字のみで出自がわかりますか?                                戻 る

A13.トップ頁でも述べていますが、各苗字における出自は歴史的に主要なものを掲載している。
 人口の多い苗字ほど異流が多く、苗字によっては数十流から百流を突破するものもある。
 中でも中村姓は、異流の多い苗字の中でも筆頭と言われる。 (詳細は中村地名と中村氏を参照)
 官職名や特殊な事由による苗字もありますが、90%以上が地名に由来している。
 官職名系と思われる佐藤、斎藤なども全国各地に佐藤村、斎藤村が存在する。
 これは、佐藤氏や斎藤氏の移住により地名が付けられたことによる。
 以降は、その地の出身者が領主よりの苗字下賜や苗字私称により地縁的な同苗が繁衍するわけである。
 例えば全国の佐藤さんがすべて藤原秀郷の末裔と考えるのはナンセンスである。
 (佐藤姓を代表的とする天下の大姓については10大姓の分析を参照)
 また同一地名が他に無い希少姓ほど、出自判明の確度が高くなる。 
 当サイトの苗字出自も地名由来が多いが、あくまでも歴史的著名家系を特称代喩としているに過ぎないのであって、関連苗字も調べることを勧める。 (代表例:加賀美氏の全ては加賀美遠光の裔か
  
 地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか 地名苗字読み解き事典
       苗字と地名の由来事典 苗字と名前を知る事典


Q14.通称から出自がわかりますか?                                 戻 る

A14.家系図、墓碑、過去帳、分限帳などで江戸時代の祖先までたどり着けた方は、通称を発見することが出来る。
 通称名は、本姓(出自)と官職名(または輩行名)から構成され、代々間違いなく伝えられていれば本姓がわかる。
 【藤原氏】藤左衛門、藤兵衛、藤十郎 【源氏】源五郎、源内、源大夫 【平氏】平右衛門、平二、平五
 【橘氏】吉左衛門、橘三 【菅原氏】官兵衛、勘左衛門 【大江氏】郷右衛門、郷太郎 【清原氏】清兵衛、清右衛門
 など。

通称一覧

       
藤原氏 丹治氏 春日氏
春原氏
佐伯氏
源氏 小野氏 伴(判、塙) 伴氏
平氏 田(伝) 田口氏 物部氏 桑原氏
橘(吉) 橘氏 大神氏 石上氏 滋野氏
菅(官、勘) 菅原氏 長谷部氏 巨勢氏 坂上氏
江(郷) 大江氏 宗(惣、総) 惟宗氏 朝野氏 粟田氏
清原氏 文室氏 勇山氏 和気氏
和氏
中(忠) 中原氏 高(幸、孝) 高階氏 卜部氏
安倍氏 多(太) 多氏 錦織氏 三原氏
紀(木、喜、記) 紀氏 毛野氏 賀陽氏 大宅氏
三善氏 豊原氏 淡海氏 良峯氏
 日本人の名前の歴史

Q15.系図の真偽について                                        戻 る

A15.家系を表現する文書として古今東西多く作成されているが、信用出来る部分と信用出来ない部分がある。
 所詮、家系とは接ぎ木であり、古い家系ほど養子(非血縁も含む)や猶子により継承している。
 摂家筆頭の近衛家にしても19代信尋は後陽成天皇の皇子であり、32代忠Wは細川家からの養子なのである。
 英国王室にしても、ノルマン家のウィリアム一世に始まり現在のウィンザー家のエリザベス二世に到るまで、各家初代王は前王家から王妃を迎えて家名は代わるが血系のみは継続している。
 継体天皇の正統性に疑いを持つ学者が多いが、皇后の手白香皇女は仁賢天皇の娘であり血系は継続している。
 また我が国の上古は母系制社会であり、史料に拠っては神功皇后や飯豊皇女の天皇即位説もあり現実に多くの女帝が存在するが、日本書紀編纂時に皇室系図を中華風の男系相続型系譜に再編成したのが真相である。
 上古の皇都が代々転都したり、藤原摂関家の居宅が代々移動して当主が居宅名を称号としたことが物語たる。
 中央貴族末裔を称する中古の豪族の祖も下向した貴族の庶子が婿養子になったのが真相であり、時代を経るに従い同苗の親戚も中央貴族末裔を仮冒することになり幾何級数的に中央貴族出自の寡占化が起こったのである。
 尊卑分脈に必ずしも誤謬が無いわけではないが、系図の古い部分の人物が尊卑分脈に存在しなければ、その部分に限っては系譜偽造の可能性が高いと言える。

 系図の仮冒は上古からはじまり盟神探湯などの防止策も実施されたが、新撰姓氏録搭載の多くの家系も仮冒があり地祇系を天孫系にした例として尾張氏が上げられる。
 新撰姓氏録は天火明命を瓊瓊杵尊の子として尾張氏を天孫族とするが、「天孫本紀」等各種の尾張氏関係資料から神武東征の功臣、高倉下命の後裔で、天忍人命が天村雲命の子は誤りと思われる。
 尾張氏の奉ずる熱田神宮の御神体は草薙剣で、バビロニアの暴風神、軍神のアッタド神が淵源。
 また鎮座地の名古屋はシュメール語のナグヤーの転訛、意味はナグー(神の鎮護地)、ヤー(海神の名称)なのである。
 尾張氏の祖は、安曇氏と同じ綿積豊玉彦命で海神族が改めて証明される。
 今でこそ熱田神宮は海岸から遠ざかったが、安東広重の版画行書版「宮(熱田)」には海神の象徴である浜の鳥居が立っている。
 物部氏は天神族とされるが祖の饒速日命の別名は火明命で、天火明命に通じ瓊瓊杵尊の子の説を裏付ける。

  系図が語る世界史 英国王室史事典 古代天皇系図―初代神武天皇~第50代桓武天皇
       招婿婚の研究 (1953年)


Q16.系図の偽造手法について?                                    戻 る

A16.系図の偽造手法も様々だが、江戸時代の偽系図の大家である沢田源内が用いた手法が典型的である。
 甲、乙、丙と続く実在の系図にAという架空の人物を立て、B、C、Dの架空の三代を挟み込み、この後に実在する人物のEを繋ぐのが常套手段である。
 沢田源内は大胆にも六角佐々木氏正系を無視して高頼の長子を氏綱と偽り、架空の三代を立てて偽作している。
 また、母方の和田氏も氏綱の末弟高成の裔として佐々木系図に加筆偽造を施している。
 江戸時代はこの手の系図が広く流布され、旧家所蔵系図や公刊系図集などにも多く見られる現象である。
 

  

 日本中世史料学の課題―系図・偽文書・文書


Q17.女系系図とは                                            戻 る

A17.尊卑分脈をはじめとする代表的な系図集では女姓の実名記載は稀で、紫式部とか清少納言などの宮廷に於ける通称名で記載されていることから男系系図であることは明らかである。
 上古の母系制社会では、氏こそ氏長者を頂点とする氏族制社会であったが、財産は女系伝領であり家号で系譜を作成すれば女系系図になるのが本来の姿だが、中古以降の家族制度が男系中心となり後世に伝わる系図は男系系図が標準となったのである。
 しかし多くの系図の中には女系の子孫を記載している系図が見られ、一般的に女系系図と言われる。
 「若狭国鎮守一二禰宜代々系図」では牟久氏と姻戚関係にある多田氏、池田氏、田中氏、鳥羽氏、和田氏、木崎氏、和久利氏、渡部氏、印庭氏などを包含する構成となっている。
 前述の系図ほどでは無いが、「梶川系図」、「稲葉系図」、「蒲生系図」なども他氏の系図を含んでいる。
 室町・南北朝あたりまで残存した招婿婚は嫁入婚へ婚姻形態が変わるが、以降も母系制の残滓として妻方の苗字を名乗る例があり、「寛政重修諸家譜」や「地下家伝」などに事例が散見される。
  
                           稲葉系図の例
  
 女性が主人公―有名328家の新系図 新家系図集成〈2〉女系尊重―著名280家の新系図
       新家系図集成 (3) 新家系図集成〈4〉有名331家の女性中心新系図


Q18.中国や朝鮮などの出自の苗字は?                               戻 る

A18.平安時代初期に編纂された「新撰姓氏録」によれば、約3割が諸蕃(中国、朝鮮などからの帰化族)であり、我々日本人の血統は単一民族ではなく大陸や半島からの移民が多かったことの証左である。
 例えば、「皇甫」と言う苗字があるが、中国の炎帝時代に治水に貢献した白氏の子孫で西漢(前漢)時代に「皇甫」に改姓している。 現在、半島の韓国にも「皇甫」姓が約8,500人存在する。
 我が国へは、正倉院神護景雲三年(769)文書に「花園正従五位上皇甫東朝」と記録があり、奈良時代に来朝帰化したことがうかがえる。 現在、日本の「皇甫」姓は、約70人ほど存在するが、漢帰化族の子孫と在日韓国人などから構成される。 ほかにも日本の文献に現れない一文字姓の中には、中国出自のものが多く見られる。
 また沖縄においては、明国福州(現在の福建省)からの移民36姓の末裔は沖縄の姓に改称しているが、族譜などを遡れば中国出自であることが分かる。

              
仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」
              応神朝帰化族の正体
              公卿になった帰化族
 
 古代の帰化人 天日槍―帰化人第一号神功皇后外祖母家
       秦河勝―帰化人系の一頂点 聖徳太子の寵臣 (1968年)
       百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)―東北経営の先駆者東大寺大仏造立の殊勲者
       沖縄門中大事典


Q19.源平藤橘の多い理由について                                  戻 る

A19.広範な階層が祖先を誇り系図一巻を所蔵するようになったのは江戸時代中期以降のことである。
 多くの家は運が良くても戦国時代末期程度までしか遡れないのが普通であり、ほとんどは出自不詳なのだが、

 (1)当時、流布していた大系図(尊卑分脈の抄本)の掲載下限である天正期の系譜上のそれらしき人物に祖先を無理矢理繋いだ結果、勢い源平藤橘の出自が主流を占めるようになった。
 (2)我が国は平安末期から鎌倉期にかけて母系制社会から父系制社会へ移行したが、その後も母系制の残滓とも言える外家(母方)の姓に改称する例が多く、寛政重修諸家譜や地下家伝などに事例が見られる。
 その場合概ね、家柄重視の時代にあっては源平藤の3姓が多くなる。
 (3)平安時代から地方に下向する源平藤橘の出自である受領(国司)一族が、任期後も土豪と姻戚関係により土着した例が多く、いつしか土豪一族も源平藤橘を称するようになった。

 家系とは家督と先祖祭祀を継承するものであり、必ずしも血系の継続を伴うものでないのである。
 後世に多くの家が源平藤橘などから分流したと考えるのは大いなる幻想で、婿養子や猶子、絶家再興、官職就任改姓などの家系継承手続きを経て上古の旧族が中古の名族である源平藤橘に吸収されたのが真相である。
 平基親の「官職秘抄」に「外記史に四姓(源平藤橘)の人を任ぜず」とあり、四姓は公卿などの上級官職に就任する為の格付け的性格を有している。
 また一部の歴史学者が仮冒だ偽系だと騒ぐのも可笑しい話で、出自(家系)とはそういうものなのである。
 それでも出自=血系(男系)にこだわるむきがあるが、天皇家にしても幾たびも傍流から皇位有資格者が皇位継承をしてきたのであり、昭和22年(1947)の11宮家皇籍離脱を因として将来の皇位継承危機が忍び寄りつつある。
 五摂家筆頭の近衛家は、慶長年間に後陽成天皇第四皇子が養子として信尋を名乗り、昭和40年(1965)に細川家より護W氏が女系から養子として入ったのだが、現代の近衛家が藤原鎌足の末裔に変わりはないのである。
 毛利家は大江広元を祖とするが、広元は藤原光能の子であり中原広季の養子となり、さらに大江維光の養子に転じているのだが血系の藤原氏ではなく大江氏を出自(家系)としている。
 平姓公卿の嫡流は南北朝時代より西洞院家が累代継承して永禄9年(1566)西洞院時当に至り断絶するが、天正3年(1575)に飛鳥井家より公虎(飛鳥井家養子の安居院覚澄の子、のち時慶に改名)が養子として絶家再興をする。
 その後に平松、長谷、交野、石井の支流家が成立するが、家系的には藤原氏なのである。
 以上の様に家系=血系(男系)の思想に基づけば、日本中のほとんどの家系は出自不詳と仮冒であり、出自(家系)などは全く無意味となる。       天皇家と源平藤橘   平姓発祥の謎   源平藤橘の代表苗字
  
 皇位継承の古代史 女帝の世紀―皇位継承と政争 大江広元改姓の謎 お家相続―大名家の苦闘
       継承の人口社会学―誰が「家」を継いだか 家族の法と歴史―氏・戸籍・祖先祭祀
       日中親族構造の比較研究


Q20.岡山県に藤原は、なぜ多いのでしょうか?                           戻 る

A20.藤原の苗字は全国的にも多く約30万5000人で46位であるが、岡山県は約2万5000人の2位と対人口比で群を抜いて多いことがわかる。
 ちなみに最も人口の多い県は、女優藤原紀香の出身地として知られる約4万1000人の兵庫県である。
 大和国高市郡藤原発祥の藤原朝臣鎌足に始まる藤原氏があまりにも有名だが、末裔の公家藤原氏の多くは家号や別荘地、居住地を名乗り、武家藤原氏も官職系の佐藤や斎籐等、または地名を名乗り後世は苗字化している。
 鎌足の末裔で藤原の苗字を称するものは比較的少なく、多くは藤原氏とは無関係で各地の藤原地名に由来する。
 中でも岡山県は備前国上道郡藤原邑、美作国久米南条郡藤原邑があるほか古代の藤原県に養老5年(721)から神亀3年(726)まで藤原郡(以後藤野郡に改称され、神護景雲3年(769)に和気郡に改称)が設置されている。
 日本後紀を勘案すれば、和気氏の祖は磐梨別公姓で後姓を藤原和気真人(また藤野和気真人)、宝亀元年(770)和気朝臣姓を賜姓とある。
 和気清麿の家は藤原県主や藤原郡司の末裔と思われ、おそらく岡山県の藤原和気氏一族はの多くは、復姓衰退の流れで和気姓を避けて藤原姓を選択したものと思われる。 
 


 

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