Q & A 

応神朝帰化族の正体

 日本書紀によれば、百済から応神天皇14年に弓月君、応神天皇15年に阿直岐、応神天皇16年に王仁、応神天皇20年に阿知使主が来朝して、その後帰化したとの記述が見られる。まさに応神朝は帰化族ラッシュの時代である。
 百済建国が西暦346年であり、応神天皇は四世紀後半以降に存在したことを応神紀は証左している。
 日本書記は讖緯説により紀年延長を施しており、在位年(270−310年)が疑わしいことは明白である。
 応神天皇3年の百済辰斯王即位(385年)の記事が正しいと仮定すれば、在位年は383−423年と逆算される。

  

(1)秦氏は秦始皇帝の末裔か

代数

 

 

秦始皇帝

紀元前247−210年(在位)

故亥皇帝 紀元前210−207年(在位)

孝武皇帝 紀元前207年(在位)

功満君  

弓月君 396年(来朝)

浦東君  

秦酒公  

 新撰姓氏録山城国諸蕃秦忌寸条に「秦始皇帝後也。功智王。弓月王。誉田天皇[諡応神]十四年来朝。上表更帰国。率百二十七県伯姓帰化。」と記載、秦氏系図の多くも同様に秦始皇帝の末裔と伝えている。
 秦(シン)をハタと読むのは国訓であり地名や姓氏に限定され、姓氏録同条の「大鷦鷯天皇[諡仁徳]御世。賜姓曰波陁。今秦字訓也。」に由来する。

 実は上の表で明らかな様にタイムマシンで六百年程ワープしなければ成立しない荒唐無稽な話なのである。
 秦氏系図は仮冒か変造が濃厚であり、本当に始皇帝の裔ならば秦姓でなく嬴姓を名乗るのが自然である。
 出自としては以下の二つが考えられる。
 建国前の新羅地域は秦韓(辰韓)と呼ばれ、「魏略」によれば滅亡後に流浪した秦国人末裔の亡命者の多い地域と伝えられる。
 元封2年(紀元前109年)、始皇帝の後裔孝武王が辰韓王となり、馬韓に属して十二カ国を統治した。
 十二カ国とは斯蘆国、己祇国、不斯国、勤耆国、難彌理彌凍国、冉奚国、軍彌国、如湛国、戸路国、州鮮国、馬延戸、優由戸で、中でも斯蘆国が膨張して遂に辰韓滅亡、新羅建国(356年)。
 「三国史記」は記紀と同様な手法で紀年を遡らされて建国を紀元前57年としている。
 
滅亡後の辰韓国支配階級は百済へと移住するが、紀元400年からの度重なる高句麗南下により秦国人末裔は高句麗や新羅の圧迫から逃れる目的で来朝して養蚕や酒造の技術を日本に伝えたとの説である。
 長曽我部系図によれば、「蓋聞。長曽我部氏者。其始祖従異国来。着船於日本伊勢国桑名浦。浦人以扶之。属居子茲。是浦人者桑名彌次兵衛之遠祖也。長曽我部氏発桑名、以赴土佐国。到本山郷」とある。
 現在、新羅姓が三重県に多く松阪市に集住、また同市に服部(はとりべ)が奉職していた神服織機殿神社、神麻続機殿神社が末社を含めて18社も占めている。 正に伊勢は辰韓系秦氏の上陸地と言える。
 もうひとつ考えられるのは、五胡十六国の一つの前秦で氐族の符健が351年長安に入り国号を大秦として翌年皇帝となり、3代皇帝符堅は次々と諸国を併合して華北全土に大帝国を築き上げる。
 しかし、383年肥水の戦いで大敗北を喫して長安を放棄して衰退に向かい394年後燕に併合される。
 滅亡後に流浪した前秦国人末裔が百済経由で396年の来朝は、氐族が漢土西方出身で年代的にも符合する。

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(2)坂上氏や大蔵氏は後漢霊帝の末裔か

代数

 

 

霊帝 167−189年(在位)

献帝 189−220年(在位)

石秋王  

阿智使主 402年(来朝)

高尊王  

都賀直  

阿多倍王  

8

東漢掬  

9

坂上志努  

 新撰姓氏録諸蕃上の漢条に「坂上大宿禰 出自後漢霊帝男延王也」を筆頭に桧原宿禰、内蔵宿禰、山口宿禰、平田宿禰などの末裔氏族が記載されている。
 秦氏ほど祖と来朝帰化者との年代は離れてはいないが、献帝と阿智使主とは約180年の開きが存在している。
 日本書記の紀年延長を施した応神天皇在位年(270−310年)を適用すれば、矛盾が解決することから阿智王迄の代数を5代程度削除したか、出自を仮冒した疑いがある。

 おそらく後漢時代に帝室と通婚した関係で母系の劉姓を名乗った匈奴の南単于の裔劉淵が再興した漢(304-310)に続く前趙(310-329)皇帝の後裔が来朝帰化したとすれば、年代的矛盾は解消する。
 幕臣の劉姓古賀氏は家伝によれば「先祖は漢の高祖の苗裔にして劉氏たり。本朝に帰化し、はじめは甲斐国に住す。子孫筑後国三潴郡古賀邑にうつりて古賀を称号とし、歴世の際江上及び龍造寺につかへ、のち代々鍋島氏の家臣たり。」とある。
 おそらく高祖とは高祖光文帝劉淵のことであり、現在でも古賀姓が福岡県久留米市(旧筑後国三潴郡)に多く集住していることから家伝の信憑性が高いと考える。
 いずれにしても五胡十六国時代(304-439)が、東アジアの民族大移動と日本建国に関わっているので、いつまでも邪馬台国論争の様な局所的な歴史解読に拘っていては日本史空白の四世紀問題は解決しないだろう。

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