Q & A 

仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」

 新撰姓氏録の諸蕃に分類される帰化族は、主に応神朝以降に漢土や朝鮮半島より本邦に来朝帰化した人々である。
 しかし、諸蕃を除く皇別及び神別(地祇族を除く)に属する氏族も、大国主命の国譲神話や瓊瓊杵尊の天孫降臨神話が暗示する如くやはり外来氏族であることは確かである。
 (皇別・神別・諸蕃の意味はQ&AのQ12を参照)

 魏志倭人伝の邪馬台国(倭)の地理的位置を巡って百家争鳴だが、大陸は三国時代で北方の脅威と合わせて国境は絶えず変化、朝鮮半島も同様である。
 倭が東海の列島で一国のみ泰平の世を送っていたと考えるのはお伽話。
 東夷伝韓条では韓の地理的位置を述べている。
 @韓は帯方郡の南、東西は海、南は倭と接している。
 A韓は三種類あり、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓は西にある。
 B辰韓は馬韓の東にある。
 C弁韓は辰韓と雑居している。弁辰の瀆廬国は倭と境を接している。
 濊伝に「濊は南方で辰韓と接している。」
 何と魏志倭人伝の海島の倭とは異なる。陸上国境が有ったのである。
 元々倭族とは中国雲南省の水稲農耕民で、黄河流域で黍などの畑作農耕民である漢族・苗族とは異なる。
 長江下流に移住した倭族の一部は山東半島へ北上して、春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命したのである。
  前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。 
 後漢書東夷伝韓条に「大なるは万余戸、小なるは数千家、各々山海の間に在り、地は合わせて方四千余里、東西は海を以て限りとなし、みな古の辰国なり。馬韓は最大、共にその種を立てて辰王となし、月支国に都し、尽く三韓の地に王となる。その諸国王の先は、皆これ馬韓の人なり。」の記述がある。
 

 即ち三韓分立後も連合王国の王は馬韓人であり、馬韓国(高天原)の始祖は天御中主尊である。
 また高天原は、馬韓に通じる貴馬原を隠蔽する古事記撰録者太安万呂による迷彩工作である。
 記紀は神武即位の紀年延長を行ったが、併存する中臣氏・物部氏・大伴氏の系譜との整合性から四世紀(辛酉年の伝えからは361年)の出来事と逆算出来る。 また神武紀と崇神紀間の闕史八代については従来より指摘されている。
 仲哀紀は辰韓系の母を持つ神功皇后、皇都は畿内を離れ志賀高穴穂宮(1年2ケ月)、穴門豊浦宮(約6年)、橿日宮(約1年)と旧豊国領に7年、武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで6代仕えて享年330歳と引き延ばされている。
 仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰の三人も傍系として実在したが、闕史八代天皇と同様に記紀の紀年延長の為に直系系譜に填め込まれた。
 記紀の神代編から神武紀までは、天津神(天神族)と国津神(地祇族)の戦いであり天神族の豊国建国に始まり地祇族の国家を次々と併合して、最終的には畿内を本拠とする長髄彦が率いる大倭連合王国を併合して神日本磐余彦尊が皇位に就くまでの歴史記録である。
 天神族宗家の遠祖とされる天御中主尊は馬韓国(高天原)の始祖であり、諡号は葦原中津国を間接統治した所以による。(神別総括系図)
 

 葦原中津国は豊国と連合して九州・中国・四国・北陸までを統治する豊葦原国となる。
 豊葦原千五百秋瑞穂国とは、豊(九州+四国+長門)と葦原(石見以東越後迄)と千五百(周防)と秋(安芸)と瑞穂(備後)の五カ国を総称した国名なのである。
 豊葦原国連合の神聖条約締結地は玄界灘に浮かぶ沖ノ島(現:宗像大社奥津宮)。
 列島の過半を版図とした豊葦原国の間接統治が困難となり、宗主国の馬韓国(高天原)は天照大神の孫瓊瓊杵尊を南九州の笠沙岬に上陸させて韓国岳を経て高千穂峰より降臨して日向に奪回の橋頭堡を築くのである。(古事記高千穂峰降臨詔勅に『於是詔りたまはく、「此地は韓国に向ひ笠沙の御崎に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽高しりて坐しき。』)
 天孫降臨に随従した重臣は天児屋根命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・天忍日命・天津久米命で、それぞれ中臣・忌部・猿女・作鏡・玉祖・大伴・久米の七氏族の祖と記紀は伝える。
 いずれも天御中主尊を遠祖とする三韓連合王国の馬韓(高天原)系の天神族なのである。瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊の代になり、ようやく準備が整い東征の民族大移動で統一新国家を建国する。
 東征ルートには宇佐水軍、宗像水軍、伊予水軍、熊野水軍が有り、後世の源平の争乱、南北朝の盛衰などでも水軍の果たした影響力が極めて大きい。
 三韓連合王国が列島に統一新国家を建国直前の朝鮮半島南半は、346年百済建国、356年新羅建国。
 369年御間城入彦尊(神日本磐余彦尊の子か孫と思われる)が弁韓の新国家(任那)建国を承認する。
 以降は宗主国の地位が逆転して、四世紀末の応神朝は半島からの移民に対する帰化と賜姓をする立場に変貌する。

  

 神武天皇皇兄の後裔に関する記事
 
古事記上つ巻に「かれ御毛沼の命は、波の穂を踏みて、常世の国に渡りまし、稲氷の命は、妣の国として、海原に入りましき。」
 新撰姓氏録右京皇別下に「新良貴、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊男稲飯之命之後也。是出於新良国、則為国王、稲飯命出於新羅国王者祖合。日本紀不見。」
 新撰姓氏録左京諸蕃に「常世連、出自燕国公孫淵之後也」
 新撰姓氏録右京諸蕃に「海原造、新羅国人進公肆金加志毛礼後也」
 

 四世紀の民族大移動の痕跡として、本邦への三韓の地名遷移が見られる。
 馬韓(後の百済)系地名として高天原に代表される原(ハル、バル)が付く地名は豊筑肥地域に非常に多く分布、天孫降臨の日向も西都原、糸原、小原、川原、塚原、田原、楠原、柏原、八重原、餅原などに見られる。
 辰韓(後の新羅)系地名として九州では豊筑肥地域に白木の地名が多く、新羅をシラギの慣用読みが定着する。
 同様に肥後国葦北郡の久多良木は、百済をクダラの慣用読み発祥地となる。
 本州の弁韓(後の任那)系地名は賀陽郡がある吉備地方に多く、百済系地名は百済郡が存在した大阪府に多く、新羅系地名は近畿東部および北部に多い傾向にあり武蔵には新羅郡(後の新座郡)が存在する。
 いつ本邦の国号大和(大倭)が日本に改称されたかは不明だが、日本書紀によると大化元年(645)高麗使に詔して明神御宇日本天皇の称号を用いたのが初見であり、大化の改新を機に国号が日本に改称されたものと思われる。
 地名の面からは近江国滋賀郡に倭庄が、近江国愛智郡に百済寺邑があり、宇多源氏佐々木氏族愛智流に日本与次家綱、日本彌五郎家資が見えることから、近江国に日本の地名発祥地が存在するものと推定される。
 百済姓は、現在の大阪府をピークとして西日本に多く分布、日本姓の全国的に平準的な分布とは大きく異なる。 鹿島神宮の東方に東遷した高天原の地名が存在するが、常陸国在庁官人に百済氏が見られる。
 現在、常陸(茨城県)に百済姓は無いものの、百済姓平岡氏、税所氏、古仁所氏が見られる。
 新羅姓は、伊勢が辰韓系国なのか三重県松阪市に集住。任那姓は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に集住。
 必然性なのか近畿半島部が、朝鮮半島部との相似性を暗合するかの様に三韓の国名姓が分布する。
 百済王がいち早く本邦の公卿に補任されるなど三韓の中でも馬韓が尊重されたのは、「どこの馬の骨」や「くだらない(百済でないの転訛)」の語源からも妙に納得させられる。
 宋書夷蛮伝倭国条に慕韓(馬韓の別名)の呼称が見られるのは、馬韓王が前燕を建国した遼東の鮮卑慕容部を祖に持つことを暗示する。

 

 古代日本領土の起原―日本領土の発祥的形態に関する研究
       古代日本の領土―領土画定と記紀解読の実証的研究 (1975年)


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